手当たり次第の本棚 -4ページ目

『橋の上』〈居眠り磐音江戸双紙 帰還準備号〉


本シリーズにて、いよいよ主人公一行が本拠地である江戸へ帰還するにあたり、まzぅ「準備号」として出版されたのが本巻。
1冊の半分を、短編「橋の上」が占めるが、これは磐音が佐々木道場に入門したての頃のエピソードとなっている。

したがって、道場主健在であるのはもちろん、鐘四郎のような、後々も登場する先輩が出てくる一方、おそらくはこの短編のみのキャラクターであろうかという登場人物もいる。
磐音自身、若々しさをはしばしににじませている。

だが、こうして、本シリーズで関わりのある周辺のキャラクターをほとんど排した状態で見ると、坂崎磐音の優等生ぶりがかなり目立つように感じられる。
剣術の才能があり、かつ、藩の住職にある父のもとで、すでに藩政のため活動を開始する、若きエリートとしての磐音だ。
このまま、本シリーズ冒頭のような事にならず、ひとりの藩士として成長していったなら、どのような活躍をしたのか、少し興味がわくところだが、単なる優秀な藩士、父の跡継ぎという枠を超えなかっただろうことも感じられる。

まあ、そういう人物が思わぬ運命の変転によって、人生の冒険を重ねていくといのが本シリーズの根幹であり、だからこそ面白いのだけれど、巻数を重ね、登場人物もそれぞれ成長しているところなだけに、改めて主人公の人となりの、根幹の部分に気付かされる。

一方、シリーズの最初の展開につながる要素もあちこちにちりばめられているのが楽しい。
「なるほど、ここからこうつながっていったのだな」
という想像がふくらむからだ。


橋の上-居眠り磐音江戸双紙帰着準備号 (双葉文庫)/佐伯 泰英
2011年10月16日初版

『混沌』〈交代寄合伊那衆異聞15〉


絶対的なラスボスは別として、そいつと対決する過程で、対立した相手が、次第に仲間となっていく。
このパターンでどうしても私が連想してしまうのは、週刊少年ジャンプだ。
主人公は主人公らしく強くてかっこいい、敵もそれに応じて強く、それが仲間となっていくことで、ストーリー上はより強大な敵へ立ち向かう力となり、読者にとっては、さまざまなキャラクターが増えるという魅力もアップする。
そういう仕組みがあるというわけ。

もちろん、佐伯泰英の作品自体にそういう傾向がそもそもあるのではないかと思うけれども、特に本シリーズに関しては、それが強く出ているように感じられる。
たとえば、他のシリーズでは、侍である主人公が町人衆(それも、豪商から裏長屋の十人まで)とも、深くかかわりをもっているのに比べ、本作にはそれがない。
いや、もちろん、長崎で玲奈の実家や、黄大人とのかかわりなどはあるし、本人自身が、交易会社の運営にシフトしていく気配なので、全く関わりがないとは言えないのだけれども、他シリーズに比べて、まず、「幕府に仕える侍、すなわち幕臣である」という性格が強い事が影響しているのではないだろうか。
これも、だんだんと薄れてきてはいても、いまだ、座光寺籐之助は旗本のままだ。

従って、基本的に籐之助の周辺には、侍か、そうでなければ「腕力を本分とする」者(しかもそれが兵士的な性格を帯びていく)が目立つように思う。

しかも、それがますます本巻で国際色豊かとなった。
国際色豊かでありながら、しかも、まだ、それは武闘的な集団であるという性格を持っている。

こうなると、そもそも「旗本である」という籐之助の背景にどれほどの影響が生じるかは興味のあるところ。
本巻はちょうど、その問題にも大きくかかわってきているようで、今まで放置されていた伊那衆がどう動くのか、そして籐之助は今後幕臣として幕府に仕え続けるのか、そろそろ決着をつけるべき頃合いらしい。
タイトルのとおり、物語のなかは混沌としているが、次あたりで大きく転換するような気配。


混沌 交代寄合伊那衆異聞 (講談社文庫)/佐伯 泰英
2011年9月15日初版

『アバタールチューナー V 〈楽園〉後篇』


結論から述べてしまおう。
この物語は凄い。インパクトもある。
しかし、一見、その結末は、さほどユニークではないように思える。
実際、結末のところだけをミルなら、似たようなものは、幾つもあるのだ。
にほんおもののみならず、たとえばアメリカのSFでも同様の名作があったりするのだ。
にもかかわらず、やはり凄い読後感がある。
なぜなのか?

それは、物語の結末ではなく、あくまでもその過程が凄いのだと言えるだろう。

本作のルーツにある、ゲームの女神転生というシリーズのユニークさは、まず第一に、古今東西の神々、悪魔、妖精などをいっしょくたにゲーム世界へ持ち込んだというところにある。
本作ではその流れを汲みながら、キリスト教的世界観とヒンドゥ的世界観をうまくかみ合わせ、そこに、異質の「神」と、「情報」という、これまた女神転生をユニークなものとさせた第二の点を巧妙に使って、全く新しい世界観を打ち立てているのだと思う。

さらに、その世界観のなかで、「帝釈天と阿修羅の永遠の抗争」がモチーフとなっているのは、作者が語っているとおり、光瀬龍の『百億の昼と千億の夜』の影響も大きいのだろうが、この「永遠の抗争」が、より深く展開されているのではなかろうか。
『百億と千億~』が宇宙の熱量を問題にとりあげていたのに対し、本作は、「情報」をとりあげている。
キュヴィエ症候群により、人が結晶化し、それがEGGの製作を可能とした情報(処理)の媒体となる、しかしそれは、あくまでもそれ自体としては静止したものだ。
そして、静止した状態というのは、生物にとっては、死んでいるということになる。
生きるためには、動きが必要なんだね。

この「動き」が「抗争」であり、この「抗争」があるからこそ、世界は維持される。
帝釈天と阿修羅、いずれが勝利をおさめるわけにもいかないのは、「抗争している」状態こそが必要だからだろう。
しかし、永遠に抗争しながらも、そこには、「帝釈天が体制側であり、阿修羅は反逆者である」という含みがある。
すなわち、抗争をしているにもかかわらず、両者は均衡状態にあるのではなく、常に帝釈天側(体制側)が優位なのだ。
阿修羅は、決してかなう事がないのに、永遠の叛逆をつらぬかなくてはならない。

しかし、阿修羅-asura、とは何なのだろうか。
リグ・ヴェーダの中では、いささか曖昧な用語であるようだ。
仏教に入ると、阿修羅とは悪魔の一種とみなされるのだが、リグ・ヴェーダでは、有力な神に対してもasuraの語が用いられる。
それは、阿修羅という種族を示すのではなく、どうも、ある種の「力」をさしているようなのだ。

本作において、サーフたちがASURAと呼ばれている意味に重ねると、なかなか面白いのではないか。
人食いの悪魔と恐れられ、自らも苦しむが、実はその「力」は最終的に、世界の維持に必要なものであり、しかも、闘争する事を定められている。

興福寺の阿修羅王象は今もかわらぬ人気であり、その哀愁は『百億と千億~』にそのまま重ね合わされるのだが、本作ではその象徴性と情緒性が、パノラマティックに展開されているのだと思う。

(それをふまえて、仏教における阿修羅王、『百億と千億~』における阿修羅王、そして本作の主人公を比較してみるのも面白いかもしれない)。

そして、このようなプロセスがあればこそ、本作の結末は、同様の結末を持つ他の作品に対してユニークなものとなっている。
とくに、あくまでも「情報」という要素を練り上げ、昇華させているエピローグはすばらしい。


アバタールチューナーⅤ (クォンタムデビルサーガ)/五代 ゆう
2011年10月25日初版

『救出ミッション、始動!』〈海軍士官jクリス・ロングナイフ2〉


前巻で曾祖父が王位についたため、一転して、首相の娘+プリンセスになってしまったクリス!
プリンセスといっても、生まれながらのではないので、彼女自身とまどうことはいっぱいなのだが、何より面白いのが、彼女につくことになったメイドの存在だ。

地球出身だという彼女、アビーは、とことん謎の存在となっている。
先日出た最新刊にも引き続き登場するが、そこでも正体が明らかになっていない。
というよりもむしろ、「履歴書の通りでした」という調査結果しか出ていないのだが、「怪しいほどおかしな点がない」とも報告されているそうな。
アビーは何者なのか?
シリーズ最初の三部作で明らかになっていない点なので、もう気になって仕方がない。

何しろ、メイドとしてもすぐれているだけでなく、対諜報能力にも戦闘能力にもすぐれ、控えめなようでいて、実はぜんぜんそうでもない、なんと申しますか。
戦うメアリ・ポピンズのような女性なのだ!

本巻の面白さは、背景や筋立てもさることながら、まず目をひくのが、新米プリンセスとしてのクリスの板につかさなぶりと、このアビーのとりあわせだと思う。
また、彼女が加わったことで、三部作のメインキャラクターがそろうと言ってもいいだろう。

しかし、このように面白いキャラクター「だけ」では小説は面白くならない。
やはり、筋立てや世界構築は大切なことだ。
今回は、クリスの数少ない友人であるトミーが誘拐されたというところから事件が始まるが、当然、これも単なる誘拐ではない。
そもそも、営利誘拐なら狙われるような人物じゃないわけだし。

ここに、ロングナイフ家の宿敵ピーターウォルド家が勿論かかわってくるだけでなく、クリスの深刻なトラウマとなっている、幼い頃の弟の誘拐事件もかかわってくるのだ。
そのため、単なるふたつの家門の対決だけではなく、そこに、クリス個人の問題が強いかかわりをもつことになり、クリスが戦い、行動していく理由が強化されている。


救出ミッション、始動! (ハヤカワ文庫SF)/マイク シェパード
2011年8月15日初版

『失われた都 (下)』〈イサークの図書館1〉



女性というものは、最大の謎(ミステリイ)である、という言葉がある。
もちろん、これは、主に男の視点から語るものなのだが、これは「女性は子宮でものを考える」という言葉と、アル点で趣旨をひとつにしている。
子宮、つまり男にはない機能が女性の根本である、という考え方だ。
すなわち、この機能があるため、女性は自分の最優先的な行動は、子供を守るためのものとする。
行動だけでなく、思考も、同じである。
そのため、「論理」をこえたところで決断し、行動する可能性がある。
しかし、男には子宮というものがないため、このような突飛な行動は理解できない、というわけだ。

さて、本作でも、ふたりの女性(うち一人が、ジン)がミステリイを解く鍵としておかれている。
本作の中で繰り広げられる謀略は、ほぼ全て、男の手によるものなのだが、なぜかその鍵となるのが女性なのだ。
そして、このため、男が仕切っていると思われる謀略に、微妙なゆらぎが生じてしまい、物事が「運命的に」思わぬ方向へと転じていく。
なかなか、面白い構図であると思う。
まあ、この女性的部分というのが、すなわち「女性的な(神秘)力」であり、古代は「(女性の)智慧」とみなされたものに通じるのだから、男がかなうわけはないのだが。

一方、そのよおうな要素とかかわりのない部分もある。
それが、教皇ペトロヌスに関する部分だ。
策略によって一度は教皇の位をしりぞき、故郷で漁夫をしていた老人、聖書に語られる使徒ペテロもまた、漁夫をであったこと、中世の聖杯伝説で、パルシファルが現れるまで、聖杯を護持していた老王も同じ名を負っていた事を思うと、なかなか面白い。
そういう名を持つ「教皇」であるペトロヌスは、やむなく教皇として復位するのだが、彼がなんのために復位し、どのような結末を選んだかというのは、過酷でもあるし、おそらくシリーズの先につながる重要な要素でもあるのだろう。
実は、彼の決断も、ある重大な「喪失」にかかわるものであって、巨大な図書館の喪失と重ねられるべきものだからだ。
一軒、マイナスのようにみえる決断だが、実は、「再生のための喪失」である事をにおわせており、ここもまた面白いところ。


失われた都 (下) (イサークの図書館)/ケン・スコールズ
2011年9月25日初版

『失われた都 (上)』〈イサークの図書館1〉


本を読むのが好き、という人であるなら、やはり、図書館には格別の思い入れがあるだろう。
ペーパーバックスだの、文庫本だの、という廉価な本が巷にあふれるようになっていても、ハードカヴァーの本が並ぶ場所というのは、なにか格別の雰囲気があるようだ。

さて、世界で最も有名な図書館といえば、焼き滅ぼされたアレクサンドリアの大図書館ではないかと思うが、たとえどれほど昔の話だろうと、「図書館が焼かれた」というエピソードは、ショッキングではなかろうか。
これを異世界で再現したところから始まるのが本作。

この世界では、かつてロボットやコンピュータのようなものを使用する文明があった。
ところが、人為的な災害により、その文明は失われてしまい、はるか過去の者となってしまった。
災害が単独なのか、複数あったのかはまだよくわからないのだが、歴史に残されている最も近い災厄は、非常に強力で破壊的な呪文によって引き起こされたとされている。
これが、世界観の前提。

そして、物語の当代においては、それら過去の技術的・魔法的遺物を発掘し、人類がかつて・そして今持っている知識や技術情報の全てを、ひとつの宗教組織が巨大な図書館に集積していたというわけ。
まあ、宗教組織であって、支配者は「教皇」と呼ばれているのだけれども、信仰の話はほとんど出てこない。
まあ、ローマ教皇庁に似たものが、人類の知的遺産を一カ所に集めて管理していた、ということだ。
この図書館が、図書館のあった都ごと、いきなり滅ぼされてしまう!

何者がその破壊を引き起こしたのか?
なんのために?
知的遺産をどのよういして再サルベージするのか?

もちろん、自然災害で滅びたのではないから、そこには、人間の欲望が関与しており、暴力が用いられたという事であれば、それは戦争に発展する。
図書館を中心に据えながら、非常に複雑で何重にもかさなりあった謀略の物語なのだ。
ミステリではないが「誰がどのようにして何をした」が、次々どんでん返しのようにあらわれてきて、スリリングだし、面白い。


失われた都 (上) (イサークの図書館)/ケン・スコールズ
2012年9月25日初版

『防衛戦隊、出撃!』〈海軍士官クリス・ロングナイフ3〉


本巻では、中盤から始まる戦闘シーンに、(ある目的で)延々とバグパイプにあわせて歌われる勇壮な歌が軍事ネットワーク上に流されるということになっている。
これは、主人公クリスの友人にして有能な同僚(というか、一応、部下か)が、アイルランドの文化を受け継ぐバックボーンを持っているというところに由来するのだが、本作以外にも、アメリカのミリタリーSFには、バグパイプで軍楽が演奏されるシーンが時折登場する。
まあ、アイルランド系移民は多いからね。(そして、アメリカはなのちっても、植民地からできた国なので、ある程度多くを占めるアイルランド系移民がもたらしたものが、代替として、「祖国愛」に結びつくのかもしれない)。

そう、この音楽は、複数の意味で効果的な役割を果たしている。
人は、誰も戦争など心から望んでいたりはしない。
ならば、どういう時に人はみずから銃を取るのか?
それは、何かを切実に守りたい時。
まず第一に、自分の家族、そして愛するもの。
それを広い意味にとった時、「国を守る」ことにつながる。
アメリカのミリタリーものは、だいたい、この考えをベースにしているかと思う。

本巻は、まさしくそういう考え方が根底にある。
なぜなら、クリスの所属するウォードヘヴンは、ロングナイフ家に敵対するピーターウォルド家と、彼らが支配するグリーンフェルド同盟の巧みな政治的罠により、本拠地そのものにナイフをつきつけられる事になるからだ。
単に、軍艦が攻め込んでくるというのではない。
政治的な陥穽によって主星がほとんどまるはだかにされるだけでなく、クリスもまた、卑劣な政治的罠にかけられ、窮地に追い込まれてしまう、そこへ敵が来る、というわけ。

そういう死地にあって、彼女と仲間たちが、どのように故郷を守り抜くか、勿論、圧倒的な劣勢で立ち向かわざるをえないのだが、そういう燃える展開を助長するのが、冒頭に述べたバグパイプによる歌なのだ。
実在の歌なのかどうかは、残念ながらみつからなかったのだけれども、バグパイプによるミリタリーマーチの典型をひとつ貼っておく。

戦いそのものは、本島に壮絶だし、今までにおなじみになった人も、本巻ではじめて登場した人も、何人もが戦場で命を落とす事になる。
現在本国では9巻まで出ているというこのシリーズ、最初の3巻(つまり本巻まで)が、三部作的扱いなのだそうだ。
すなわちここで一区切りというわけで、窮地を脱して(敵を撃退するための)死地にのりこむところから、実際の宇宙戦まで、掛け値なしに凄い盛り上がりだ。
そして、この先もシリーズが続くため、完全なものではないが、最後は台風一過の空が見え、クリス自身にもどうやら新しい展開が待っていそうなラストになっている。


防衛戦隊、出陣!: 海軍士官クリス・ロングナイフ (ハヤカワ文庫SF)/マイク シェパード
2011年10月25日初版

『百年の呪い』〈新・古着屋総兵衛2〉


当代の総兵衛は、今風に言うと、日経ヴェトナム人であり、今回あらためて日本に帰化したということになる。
もちろん、日本人とヴェトナム人の両方の血が流れているのだけれど、写真などでヴェトナムの人々を見る限り、いわゆる、日本の「南方系」の顔立ちと、そう違っているとは思われない。
ゆえに、本巻で、襲名したばかりの総兵衛に、一部の人々が、どことなく異国の香りを感じるとしたら、それは彼が生まれ育った異国の文化の影響であろうかと思う。
長らく食べてきた異国の料理がかもしだす微妙なにおい、立ち居振る舞い、これらのために、観察眼の鋭い人などは、通常の日本人との違いを感じるのだろう。

そして、ヴェトナムから率いてきた一族には、一日もはやく日本人となる事を求めながらも、総兵衛、裏の顔を見せる時は、加齢な異国的ないでたちなのだ。
前シリーズでは、いさあか歌舞伎的な味わいがあったけれども、今回は同じけれん味でも、異国趣味がうまく塚wれてりう。
また、こういう派手な演出が、この作者は得意だ。
すがすがしく、かつ派手やか、ヒーローの名にふさわしい。

一方、彼がまず対決しなくてはならないものが、百年かけた呪いというのも、ちょっと面白い。
中国から伝わった風水をベースにした呪術のようだけれど、それをつきとめるのが、ヴェトナムの……というか、中華系下と名無人の占術師だ。
当然、こちらも風水などは心得ている人物だろうけれど、同じ中国系呪術を用いて、日本人とヴェトナム人が対決するという絵なのだ。
同じ源流であっても、発展方向は少しずつずれているだろう。
そういう違いが、おそらくこのシリーズでも、巧みな木細工を作っていくに違いない。

まさしく、時代小説でありながら、「国際的」。
江戸時代以前が舞台ならいざしらず、鎖国をしていた時代のものであるのに、国際色豊かというのも、ユニークだ。


百年の呪い―新・古着屋総兵衛〈第2巻〉 (新潮文庫)/佐伯 泰英
2011年10月1日初版

『グランド・セントラル・アリーナ (下)』


異星人。
それも、人間とは全く違う系統の、たとえば昆虫っぽい異星人がいるとする。
(まあ、なぜかアメリカの宇宙冒険ものに登場する異星人は、昆虫型または甲殻類型が圧倒的に多い気がする)。

ここで、進化した背景も違うし、生物としてのいろいろな違いがあるのだから、当然、彼らが発達させる文明などには人類と大きな違いが出るはずである、と考えるのは、ファースト・コンタクトテーマなどに見られるタイプ。
一方、「銀が連合」的な、多種類の異星人が組織する社会が存在する物語だと、ある程度の差異はあれ、基本的な欲望だの、考え方は、類似しているとみなす。
ほとんどのスペオペは後者のスタンスであり、本作もそこに位置している。
しかし、それでもkっちり、非人間的(?)なエキゾチシズムが漂うのは、アリーナにおける「党派」と、彼らが相争うやりかたが、面白いからだろう。
主人公の本業、レースパイロットとしての技量も発揮されるし、アクションもある。

このアクション、主人公グループのうち数名が、ヴァーチャルゲームのヴェテランで、そこで身につけた武術を使うというのだが、使う武器はナノマシンによって複製されたものなのだそうだ。
複製武器がどこまで精妙なのか、いくら全身を動かすプレイ方法とはいえ、ヴァーチャルでのみ修練(?)したプレイヤーに、実際の武器を使っての戦いができるのか、なんか疑問なのだが、まあいいか(笑)。
刀を柄っての「イアイヌキ」が作者はお気に入りの技であるもよう。
アクションはどちらかというと、きっと、ハリウッド風味だと思う。
ほとんど単調ではなく、いろいろと仕掛けも凝っているので、飽きずに読める。
ここらへんも、うまくエンタテイメントしているなあ。

しかし、並み居る異星人の中で、ちょい役なのに美味しい役回りなのは、レストランのオーナーかも。
危うくアリーナで村八分にされる(いや、ほとんどされた)主人公たちを、彼だけが堂々と迎え入れる。
彼女らがどんな厄介な相手に目をつけられようが、自分の店の料理は最高、たとえ誰だろうと、料理を楽しみたいなら自分の店に来るしかないし、それにいちゃもんをつける奴は自分が追い出してやる、と自信満々の主張をする。
いやあ、武闘派じゃないだけにこういうのはかっこいいよねえ。

また、この手のエンタテイメントでは、「憎めない敵役」が、「にくたらしい敵役」の中にひとり程度存在するのが重要だが、ちゃんとそういうキャラクターもいるところが、良い感じ。

さて、本作は一応単独の作品なのだが、アリーナの建設者についてとか、いろいろと解けていない謎が多いし、ちょっと厄介なものを背負い込んだ主人公の先行きも気になるし、逆に、かつてデュケーンがどのような活躍をしたのかも、知りたくなってくる。
そこらへんを描いた続編なり前日譚なりが、遠くない未来、日本でも読めるといいねえ。


グランド・セントラル・アリーナ (下) (ハヤカワ文庫SF)/ライク・E. スプアー
2011年7月15日初版

『グランド・セントラル・アリーナ (上)』


最近のハヤカワ文庫SFで出るエンタテイメント性の高い作品は、ミリタリーSFの比率がだいぶ高まってる気がするんだけど(まあ、もともと高いという説もあるが)、これは文句なしにスペースオペラなのだ。
それもそのはず、本作品はドク・スミスへのオマージュとなっている。
しかも、具体的な作品はといえば、誰もがまっさきに想像する〈レンズマン〉ではない。
もうひとつのシリーズ、〈スカイラーク〉……!

さて、この両シリーズ、日本ではどちらも創元推理文庫SF(現在の創元SF文庫)から出されたのだが、レンズマンが絶大な人気を誇り、アニメ化までされ、本も手に入りやすい状態が続いているのに比べ、スカイラークは早い内から入手しづらくなり、今では古本にも「え」というようなプレミアがついている。
もちろん、レンズマンも面白いのだが、スカイラークはね。
スケールが違った。
一例をあげると、「惑星と同じ大きさの宇宙船」が出てくるんだぞ。
そして、シリーズを通じての人気敵役が、デュケーヌ(デュケーン)博士。
レンズマンがある意味群像小説であったのに対して、こちらは、スカイラークとデュケーヌの一騎打ち状態であるだけに、敵役も存在感がでかい。

この作品は、物語の中の歴史上(さかのぼること数十年前)、「架空のいろいろな人物をテンプレートに使った超人を作り出して一種の仮想空間に送り込む」というとんでもないプロジェクトがあり、上記のシリーズに登場する人物などが、その計画の中から登場してきたりする。

それだけではなく、ドク・スミスばりのスケールのでかさも受け継いでいる。
まあもちろん、レンズマンだのスカイラークだのが誕生した当時のパルプマガジンでは、たいていのスペオペに、多種族の異星人が登場するのは普通だったし、太陽系を舞台としたものが主流だったとはいえ、広く銀河をかけるもの、異星人種族らが作る星間社会が何千年何万年も続いているというような状況も、かなりあたりまえのものだったようだ。
それゆえ、ここにも、多種多様な異星人が登場し、かれらは万年の単位でとある施設上でのコミュニケーションを続けており、主人公たちは、いきなり、その渦中に放り込まれて、次々に危機的状況をクリアしていかなくてはならなくなるのだ。

これは、面白くならないわけがない。

なお、スカイラークやレンズマンに登場する小ネタがちりばめられているだけでなく、訳者のあとがきによると、おたくである作者は、日本のアニメやドラマなどなどからも、「えっ」なものをたくさん小ネタとして取り入れているらしい。
アナグラムで使用しているものもいっぱいあるらしいが、こればかりは、カタカナ表記されるとわからないのが残念(まあ仕方ないけどね)。
そういや、ヒロインである女性パイロットの髪の毛が青いなんてのも、日本の人気スペオペのヒロインを思い出させるよね。


グランド・セントラル・アリーナ (上) (ハヤカワ文庫SF)/ライク・E. スプアー
2011年7月15日初版