『アバタールチューナー V 〈楽園〉後篇』 | 手当たり次第の本棚

『アバタールチューナー V 〈楽園〉後篇』


結論から述べてしまおう。
この物語は凄い。インパクトもある。
しかし、一見、その結末は、さほどユニークではないように思える。
実際、結末のところだけをミルなら、似たようなものは、幾つもあるのだ。
にほんおもののみならず、たとえばアメリカのSFでも同様の名作があったりするのだ。
にもかかわらず、やはり凄い読後感がある。
なぜなのか?

それは、物語の結末ではなく、あくまでもその過程が凄いのだと言えるだろう。

本作のルーツにある、ゲームの女神転生というシリーズのユニークさは、まず第一に、古今東西の神々、悪魔、妖精などをいっしょくたにゲーム世界へ持ち込んだというところにある。
本作ではその流れを汲みながら、キリスト教的世界観とヒンドゥ的世界観をうまくかみ合わせ、そこに、異質の「神」と、「情報」という、これまた女神転生をユニークなものとさせた第二の点を巧妙に使って、全く新しい世界観を打ち立てているのだと思う。

さらに、その世界観のなかで、「帝釈天と阿修羅の永遠の抗争」がモチーフとなっているのは、作者が語っているとおり、光瀬龍の『百億の昼と千億の夜』の影響も大きいのだろうが、この「永遠の抗争」が、より深く展開されているのではなかろうか。
『百億と千億~』が宇宙の熱量を問題にとりあげていたのに対し、本作は、「情報」をとりあげている。
キュヴィエ症候群により、人が結晶化し、それがEGGの製作を可能とした情報(処理)の媒体となる、しかしそれは、あくまでもそれ自体としては静止したものだ。
そして、静止した状態というのは、生物にとっては、死んでいるということになる。
生きるためには、動きが必要なんだね。

この「動き」が「抗争」であり、この「抗争」があるからこそ、世界は維持される。
帝釈天と阿修羅、いずれが勝利をおさめるわけにもいかないのは、「抗争している」状態こそが必要だからだろう。
しかし、永遠に抗争しながらも、そこには、「帝釈天が体制側であり、阿修羅は反逆者である」という含みがある。
すなわち、抗争をしているにもかかわらず、両者は均衡状態にあるのではなく、常に帝釈天側(体制側)が優位なのだ。
阿修羅は、決してかなう事がないのに、永遠の叛逆をつらぬかなくてはならない。

しかし、阿修羅-asura、とは何なのだろうか。
リグ・ヴェーダの中では、いささか曖昧な用語であるようだ。
仏教に入ると、阿修羅とは悪魔の一種とみなされるのだが、リグ・ヴェーダでは、有力な神に対してもasuraの語が用いられる。
それは、阿修羅という種族を示すのではなく、どうも、ある種の「力」をさしているようなのだ。

本作において、サーフたちがASURAと呼ばれている意味に重ねると、なかなか面白いのではないか。
人食いの悪魔と恐れられ、自らも苦しむが、実はその「力」は最終的に、世界の維持に必要なものであり、しかも、闘争する事を定められている。

興福寺の阿修羅王象は今もかわらぬ人気であり、その哀愁は『百億と千億~』にそのまま重ね合わされるのだが、本作ではその象徴性と情緒性が、パノラマティックに展開されているのだと思う。

(それをふまえて、仏教における阿修羅王、『百億と千億~』における阿修羅王、そして本作の主人公を比較してみるのも面白いかもしれない)。

そして、このようなプロセスがあればこそ、本作の結末は、同様の結末を持つ他の作品に対してユニークなものとなっている。
とくに、あくまでも「情報」という要素を練り上げ、昇華させているエピローグはすばらしい。


アバタールチューナーⅤ (クォンタムデビルサーガ)/五代 ゆう
2011年10月25日初版