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『竜王戴冠 1~8』〈時の車輪5〉



ランド・アル=ソアはティアに続いてケーリエンを手に入れる。
エレインとナイニーヴはタンチコを逃れ、大道芸人の一座に隠れてアマディシアを抜け、サリダールへ向かう。
まさしく全界全てを巻き込む争乱のなか、注目どころはマットとナイニーヴだろう。

竜王の再来として自他共に認められたランド・アル=ソア,アイール人賢者のもとで夢見人の修行にいそしむえぐうぇーん、トゥリバーズの領主、金目の大将軍として祭り上げられたペリンを追うように、まず、マットが独り立ちする。
ルイディーンで手にした鑓とメダル、そして予言の意味はまだ明らかにされぬものの、ますますマネサレンの英雄たちの記憶がマットの中に入り込んでいく。
それと同時に、「頭の中で転がるダイス」というユニークな現象によって、単に強運のギャンブラーというだけではなく、無意識に、軍事にすぐれた指揮者として覚醒していくのが面白い。
衰退される形で指導者となっていったペリンと、道筋は似ているようにもみえるが、古代の記憶に侵食されるという点で大きく異なるし、それが特定の人格のものではないというところが、ランド・アル=ソアとも異なる。
メリンドラとの関係も、甘く切ない展開が待ち受けている。
マットの手勢、赤手軍も、ここでできあがる。

一方、ナイニーヴがたどるのは、茨の道だ。
絶対力に関してはいわば天才である彼女は、指導を受ける前に絶対力を独力で使うようになった「暴れ馬」ならではの壁にぶつかるとともに、村の賢女として思うがままにふるまってきたことによる性格を、いやおうなしに自ら矯めなくてはならぬハメに陥る。
さらに、闇セダーイという強敵が荒wれて深甚な恐怖を味わう。
男女間のことについてもいろいろな初体験があり、エレインとナイニーヴの間に、新たにビルギッテという存在が登場したことにより、エレインとの不仲、そして疎外感も味わう事になってしまうのだ。
自分でも内心は認め、まわりからも指摘されるとおり、ナイニーヴの行動はある意味支離滅裂で、幼稚なものとなっていく。
かわいそうなほどだ。
絶対量kに関する部分だけでなく、ナイニーヴはいろいろな面で、無礼楠r-しなくてはならない状況に陥ってしまうのが物語のこの部分だ。

しかし、主要人物がこのように華々しく活躍する一方で、ちょい役や脇役にも、光った存在があるというのは面白いし、凄い。
たとえば、竜王の旗手を務めることになったペヴィンという男。
争乱のさなか、一人ずつ家族をうしなっていたという以外は、ごくごく平凡な男なのだが、その彼がどのようにして旗手をつとめるに至り、どのようにふるまっているか。
登場期間はこの第5部のみという短さであるにもかかわらず、なかなか印象深い。


竜王戴冠〈1〉選ばれし者たち―「時の車輪」シリーズ第5部 (ハヤカワ文庫FT)/ロバート ジョーダン
竜王戴冠〈2〉“竜王の壁”を越えて―「時の車輪」シリーズ第5部 (ハヤカワ文庫FT)/ロバート ジョーダン
竜王戴冠〈3〉旅の大道芸人―「時の車輪」シリーズ第5部 (ハヤカワ文庫FT)/ロバート ジョーダン
竜王戴冠〈4〉青アジャの砦―「時の車輪」シリーズ第5部 (ハヤカワ文庫FT)/ロバート ジョーダン
竜王戴冠〈5〉勇者ビルギッテ―「時の車輪」シリーズ第5部 (ハヤカワ文庫FT)/ロバート ジョーダン
竜王戴冠〈6〉ケーリエン攻防戦―「時の車輪」シリーズ第5部 (ハヤカワ文庫FT)/ロバート ジョーダン
竜王戴冠〈7〉旅路の果て―「時の車輪」シリーズ第5部 (ハヤカワ文庫FT)/ロバート ジョーダン
竜王戴冠〈8〉竜王の旗のもとに―「時の車輪」シリーズ第5部 (ハヤカワ文庫FT)/ロバート ジョーダン
2001年5月~2001年12月

『竜魔大戦 1~8』〈時の車輪4〉



物語の中心にいるのが若い男女である以上、当然、この物語も、キャラクターの成長物語という一面を無視する事はできない。
物語の序盤から中盤に移っていくこの部分は、まさしくキャラクターが故郷を出て自分の殻を破り、成長を始める部分だと言えるだろう。

最も大きな変化を強いられるのは、ランド・アル=ソアとエグウェーンの二人だと思う。
しかし、絶対力のソースが男性源と女性源に別れているごとく、二人の成長の即席は全く違うものだ。
ランド・アル=ソアは、竜王の再来として最も重い運命を背負わされている。
それに押しつぶされず、また、逃げることもなく、向き合っていくことが、彼の成長の動力源であって、それは、人間が本来逆らいえない「運命」と戦う、英雄本来の成長コースだ。
また、ど田舎の羊飼いが、広い世界に出て、多種多様な文化をまのあたりにし、それらと折り合いをつけていく(しかも自分の背負う運命によって、それらに変化を与えていく)なかで、ヒントを与えてくれる者こそたくさんいるとしても、手に取り足をとって教えてくれる者はない状態だ。
つまり、彼は自分がどのようにすべきなのか、常に、自分で考え、習得していかなくてはならない。
そのことが、自然と、力や風格をつけていくようになっている。

一方、エグウェーンが立ち向かう困難は、常に、同じ人間によって与えられるものに見える。
異能者(アエズ=セダーイ)への道を歩み出した事によって、白い塔での修練をはじめ、一歩債の状況もわからぬままアミルリン位によって、黒アジャ狩りに送り出されるだけでなく、白い塔では長きにわたり登場しなかった、夢見人の能力があることから、全く違う文化圏のアイール人賢者に教えを請う事になる。
この時期のエグウェーンは、非常にスパルタではあるが、ランド・アル=ソアと異なり、いわば手に取り足をとって教えを受けている状態だ。
運命のように漠然としたものではなく、具体的な「指導者」が存在する事で、まず、それを受け入れる事を学ぶのがエグウェーンのスタートラインとなっている。
そして、この経験を踏まえ、後には異能者のパワーゲームの駒にされつつ、自分の目的のために苦闘の道を自ら選ぶ事になるわけだ。
主人公たちの中で、最も、学ぶ機会を多く与えられている優等生がエグウェーンなのだ。

もちろん、かれらのまわりの準主人公たちもそれぞれ困難な道を歩むわけだけれど、仲間のなかにあって、調整者の役割を受け入れながら、将来の女王への道を歩みだしたエレイン王女や、自然とリーダーにまつりあげられていき、その責任を受け止めるペリンなど、ランド・アル=ソアやえぐうぇーんほど明快ではなくとも、それぞれ全く違うカラーがあるのは、とても面白い。
いささか気の毒ではあるが、一番損をしているのはナイニーヴだろう。
生来の短気と傲慢さという特徴もあるのだろうが、そもそも彼女は、最初からある程度絶対力を使う事ができるというアドヴァンテージがあるだけに(また、その潜在能力が非常に大きいとも言われているだけに)、えぐうぇーんとは全く逆に、学ぶチャンスが少なく、謙虚に学ぼうという意欲が小さいのだ。
このために、人間的な成長を始めるのは、身近な人間に限定しても、えぐうぇーんやエレインの方が先となってしまい、この時点では、反面教師的な、「悪い例」の見本になってしまっている。
実に、彼女が良い方にかわりはじめるのはかなり遅い。

さて、物語の背景に目を転じると、まず本筋にかかわる部分としては、闇セダーイがあからさまに表面に出て来ている事があげられるだろう。
セリーンがランフィアである事がはっきりするだけでなく、他数名の闇セダーイがどのような名前で、どの国で活躍しているかもわかってくる。

また、アイール人が前面に出てくるだけでなく、ランド・アル=ソアがルイディーンにおもむく事によって、アイール人の歴史も開陳される。
もちろん、放浪の鋳かけ屋たちとの関わりも明らかになる。
アイール人がふたつに割れるのも、ここからだ。

舞台となるのは、ランド・アル=ソアとえぐうぇーん、そしてアビエンダやモイレインがいるアイール荒地はもちろん、ナイニーヴやエレインのいるタラボン国が目新しいところだが、ペリンとロイアル、ファイールがトゥリバーズで活躍するのも、興味深い。
ふつう、このタイプの物語の主人公は故郷を出てから、一度そこへ戻るという事がまずない。
しかし、ペリンは戻ってくるわけだ。
旅だった時とはまるで別人になっているペリンがトゥリバーズでどのように迎えられるか。
ペリンの成長の鍵は、まさしく、ここにある。


竜魔大戦〈1〉忍びよる闇―「時の車輪」シリーズ第4部 (ハヤカワ文庫FT)/ロバート ジョーダン
竜魔大戦〈2〉石城は陥落せず!―「時の車輪」シリーズ第4部 (ハヤカワ文庫FT)/ロバート ジョーダン
竜魔大戦〈3〉それぞれの旅立ち―「時の車輪」シリーズ第4部 (ハヤカワ文庫FT)/ロバート ジョーダン
竜魔大戦〈4〉聖都ルイディーン―「時の車輪」シリーズ第4部 (ハヤカワ文庫FT)/ロバート ジョーダン
竜魔大戦〈5〉狼の帰郷―「時の車輪」シリーズ第4部 (ハヤカワ文庫FT)/ロバート ジョーダン
竜魔大戦〈6〉闇が巣くう街―「時の車輪」シリーズ第4部 (ハヤカワ文庫FT)/ロバート ジョーダン
竜魔大戦〈7〉白い塔の叛乱―「時の車輪」シリーズ第4部 (ハヤカワ文庫FT)/ロバート ジョーダン
竜魔大戦〈8〉聖都炎上!―「時の車輪」シリーズ第4部/ロバート ジョーダン
2000年3月~2001年3月

『神竜光臨 1~5』〈時の車輪3〉



第2部で進む道がbらばらとなった仲間が第3部ラストで再び(偶然にも)集結してくる。
そして、ランド・アル=ソアがとうとう竜王の再来として名乗りをあげるのがここであり、まさしくシリーズ前半のクライマックスと言えるだろう。

異能者(アエズ・セダーイ)の技の片鱗が見えることも、ペリンと狼の絆についても垣間見える事が面白いうえ、いよいよアイール人が登場し、この後非常に重要なキャラクターとなるアビエンダ、そしてファイールも加わってくるなど、注目すべきところはいろいろとある。

しかし、何より重要なのは、ここで大きく、夢の世界(テル=アラン=リオド)が登場してくる事だろう。
エグウェーンが夢見人としての能力を発揮しだすだけでなく、門石から通じる異世界が夢の世界と関連あるのか、また、狼と夢の世界はどういうかかわりなのか、ユニークであり、興味深くもある要素だ。
とくに、狼との関わりは、ほんとにユニークだと思う。
動物が、一種の群体、あるいは集合意識を持つというような設定は、他の作品でもないことはないが、そこに「夢の世界」を持って来ているところは本島に面白い。
ジョーダンはいったい、どこからこの着想を得たのだろう。
単に夢の世界ということであれば、オセアニアの神話をイメージさせるが……。

また、このテル=アラン=リオドと、修練生が異能者候補となる時に体験する異世界とは、何か関係があるのか。

キャラクターにとっての現実世界と、これら(おそらくは複数)の異世界との関わりは、最終的にどのように解き明かされていくのだろう。
世界そのものも、歴史模様に関する説明で、多数存在する、多元宇宙である事が示唆されている。
この難解な要素を、作者亡きあと、後継者がどのように用いるかも、注目したいところだ。

また、狼について考えれば、ケルト・ゲルマンの伝承における狼より、なんとはなしに、北アメリカの伝承の方がモチーフまたは元ネタとして、大きく取り入れられているように思う。
つまり、ゲルマン系の伝承では、狼は戦や戦士と強く結びつけられるものだが、北アメリカでは、導き手として現れる事が多いようだ。
この特徴は、たとえばエディングスも、〈ベルガリアード〉で使用しているけれど、ペリンと跳躍(ホッパー)との関係、そしてそこに関連する夢の世界の方がより巧みであり、非ゲルマン的だ。

小さいところでいうと、石並べ遊びと呼ばれているものが、ここで明らかに、白と黒の石を使う盤ゲームで、石を使った陣取り遊びであえる事が描写されており、東アジアの人間であれば、「ああ、これは碁だな」と連想する。
ティアの下町で、ぬかるみの中を歩くために用いる「木の板」は、下駄みたいだ。
こういう、非ゲルマン・ケルト的というか、アジア的な要素が、実に違和感なく作品のメインを占める中世ヨーロッパ風の世界に溶け込んでいるところも、他のアメリカ人ファンタジイ作家が描くような、非ゲルマン的要素を取り入れた作品に比べ、出色の出来だと思う。
違和感を感じさせないだけでなく、それが存在する事で、自然に、ユニークな世界を形作っているからだ。

一方、非常にアメリカ的な部分もある。
それは、登場人物たちの「自由」志向にあらわれていると思う。
ランドも、ナイニーヴも、エグウェーンも、実にしばしば、「利用されるのはたくさん」と考えている。
たしかに、物語の登場人物は、その物語中の、より高次元な存在(たとえば、運命。ここでは歴史模様など)の、手駒的な扱われ方をするだろう。
しかし、その状態を、やや低位の存在である、異能者と白い塔であるとか、闇王の手先である闇セダーイなどに仮託し、操られたくない、利用されたくない、と考える傾向は、アジアにもヨーロッパにも、あまりないんじゃないかと感じられる。
時として傲慢なまでに、そして自己中心的なまでに、自由である事を渇望する。
ある能力を使いこなすための訓練や知識のようなものを対価としてえられる状況であってすら、他人の目的に奉仕するという事をしたがらない。
こういう部分は、中近東におけるアメリカの動き方などと、なにやら相通じる臭いを感じてしまうんだよねえ。


神竜光臨〈1〉魔人襲来!―「時の車輪」シリーズ第3部 (ハヤカワ文庫FT)/ロバート ジョーダン
神竜光臨〈2〉白き狩人―「時の車輪」シリーズ第3部 (ハヤカワ文庫FT)/ロバート ジョーダン
神竜光臨〈3〉夢幻世界へ―「時の車輪」シリーズ第3部 (ハヤカワ文庫FT)/ロバート ジョーダン
神竜光臨〈4〉闇の妖犬―「時の車輪」シリーズ第3部 (ハヤカワ文庫FT)/ロバート ジョーダン
神竜光臨〈5〉神剣カランドア―「時の車輪」シリーズ第3部 (ハヤカワ文庫FT)/ロバート ジョーダン
1999年5月~2000年1月

[聖竜戦記 1~5]〈時の車輪2〉



ロバート・ジョーダンという作家が、異世界の構築者として、そしてストーリーテラーとして実に巧みだと思ったのが、この第2巻(翻訳では第2部)であったかと思う。

まzぅ、異世界の構築力という部分。
人間にとってはどうしても、自分が生まれ育った文化圏の視点から離れる事が難しい。
たとえば、自分の国の事であってさえ、歴史上の人物や事件について、どうしても、「現代人の視点」で判断してしまいがちである事を考えてみればいいだろう。
もちろん、他の文化圏に対しても、お互いに同様の事をする。
その点、ジョーダンは極力それを避けているように思われる。

たとえば、この時点でのアミルリン位であるシウアン・サンチェという人物像は、その努力が顕著にあらわれている。
努力されすぎていていささか鼻につくほどなのだけれど、彼女は、漁民の娘であった、という設定があり、このためシウアンは、魚を常食とする暮らし、日常船にのっている者としての表現を多く使っている。
それだけでなく、決して、農民であったり、牧畜をする者がするような表現は使わないのだ。
思えば、トゥ・リバーズ出身の者たちも、山間の村で羊などを飼う農民であることを強くにおわせる表現を用いていた。「頭の中に羊毛がつまったような愚か者」などは、頻繁に出て来た事が思い出される。
もちろん、逆に、他の国出身のキャラクターは、そんな表現は使わない。
モイレリンにしろ、エレインにしろ、その人物が歩んできた「それまでの人生」がきっちりと設定されていて、それに応じた言動をきちんととっている事もわかる。

そして、重要なポイントは、そういった「裏設定」がくどくどと説明されていないというところだろう。
シウアンはどこそこの出身でどういう暮らしをしていたから、こういう風にふるまう、といったスタイルの説明はない。
むしろそのあたりは完結に、「こう一言書いておけばわかる」的なシンプルさで、だからこそ余計にリアリティが増す。
そう見ていくと、この物語の文章は、実に緻密に練られたものだと思う。

もちろん、完璧だというわけではない。
たとえば、誰も絶対力が使えないはずの安息の地で、ヴェリンは、治療の技らしきものを一瞬使ってしまっている。まあ、ときにそのくらいの穴があった方が、いいのかもしれない。

こういった緻密さは、もちろんいろいろな国々や民族の描写にもあらわれている。
この世界を構築するにあたって、ジョーダンは、従来のファンタジイで定番の、ケルトや古代ヨーロッパのモチーフの他に、ロシアや日本などのものも取り入れているという。
根気大きな役割を果たす境界地域のシエナール王国などは、かなり日本のモチーフが取り入れられているのではないかと感じる。
一種の髷を結っている戦士たち、片刃の剣(ということは、厳密には、剣ではなく刀)、などなど。
しかし、これもまた、露骨に日本風なわけではない。
うまいことそういった要素を用いる事で、オリジナリティを出しているところが、良い。

一方、ストーリーテリングとしてはどうだろう。
これは、単純な正邪対立の物語でも、若者たちの成長物語でもない。
後に、アル=ソアが、あるいはエグウェーンが疑心暗鬼に狩られるとおり、ごくごく普通の人たちや、時には周囲が認める立派な人々の中にさえ、「闇の信徒」が立ち混じっているという想定はなかなか怖い。
なかには、最初から闇の臭いがぷんぷんしているキャラクターもあり、「えええっ。マジで? この人がっ?」というような人物もある。
実際、ここでも、まさかこの人がというような人物が、闇と関わり合っていた事がわかる。
すなわち、闇の信徒にもさまざまなスタイルの者がいて、闇王との関わり合いかたも千差万別であるところが、登場人物だけでなく、読者をもうまく煙に巻き、複雑で魅力のあるストーリーにしているわけだ。
それが、シエナールのように、それぞれオリジナル性の豊かな国々を背景に展開するのだから、面白くないわけがない。

ショーンチャン人の、飼い主(スル=ダム)と女奴隷(ダマネ)の関係も面白い。
絶対力を使う事ができる女性を腐りにつないでしまい、その人権も無視するという背景には、ちゃんとこの世界の歴史が理由として存在しているのだけれど、ラストのところで、飼い主の実態が解明されると、その忌まわしさがさらに浮き彫りとなる。
この、多重構造を持つ設定も、ジョーダンお得意の仕掛けのようだ。


聖竜戦記〈1〉闇の予言―「時の車輪」シリーズ第2部 (ハヤカワ文庫FT)/ロバート ジョーダン
聖竜戦記〈2〉異世界への扉―「時の車輪」シリーズ第2部 (ハヤカワ文庫FT)/ロバート ジョーダン
聖竜戦記〈3〉異能者の都―「時の車輪」シリーズ第2部 (ハヤカワ文庫FT)/ロバート ジョーダン
聖竜戦記〈4〉大いなる勝負―「時の車輪」シリーズ (ハヤカワ文庫FT)/著者不明
聖竜戦記〈5〉復活の角笛―「時の車輪」シリーズ第2部 (ハヤカワ文庫FT)/ロバート ジョーダン
1998年7月~1999年3月

『竜王伝説 1~5』〈時の車輪1〉





作者ロバート・ジョーダン亡きあと、最終部(そしてその翻訳)はどうなるのかと懸念された〈時の車輪〉シリーズだが、このたび無事に最終部の最初の部分が日本でも刊行された。

この際、最初から再読してみようかとひっぱりだしてみたところ、日本に紹介されたのは、97年だったのか、と改めて思いをはせる事になってしまった。
つまり、すでに第1巻が日本に来て、14年がたってりうという事だ。
うう~ん、振り返ってみれば、その頃はまだブログなどもなく、書評を自分の書籍情報サイトに掲載してたなあ。
しかし、画像でもわかるとおり、原書の1巻が5分冊で毎月出されるという販売体制で、一見これは途切れなく読めるようだが、コアな読書家にとっては、細切れにされたストレスが蓄積するものでもあった。
実際、最新刊が上下巻で同時に出され、それを読んだ時に再認識したのだが、この物語は、なるべく、ぶっ通しで読みたい物語なのだ。
また、そうしないと感じ取れない部分などもある。

さて、巻数を重ねたシリーズを再読する時は、「いまこうなっているキャラが、最初はこんなだった!」と、ワケシリ顔で見る楽しみもあれば、逆に、「むむ、実はこんなところに既に伏線があったのか~」と再発見する喜びもある。
このあたりは、どのキャラに注目しているか、ストーリーのどういう部分が好みかによってもわかれてくると思うが、なにより、一気に再読して改めて感じたのは、この物語、冒頭に関しては、思ったより、『指輪物語』の影響がでかいな、という点だった。
もちろん、ジョーダンが意図的に似せたのだとは全く思っていない。
しかし、魔法の使い手によって複数の田舎の若者が冒険の旅に出るはめになること、
世界の果て、太古の魔物的存在が封じられている土地をめざすこと、またその手先に最初からつけ狙われていること、旅の比較的初期に、かつては隆盛し、いまは邪悪な闇に支配されている(しかし敵の直接の支配地とはいえない)を通過せざるをえないことなどが、共通している。

そして、この微妙な、そしておそらく意図的ではない類似が、独自の異世界を創り上げている〈時の車輪〉シリーズに、読者が教官をえやすかった理由のひとつではないかとも思う。
『指輪物語』でなじんだモチーフが、全く違う姿で、しかしそれとなく使われているため、不思議となじみやすい異世界であり、かつ、新奇の、魅力的な世界と感じられたのではなかろうか。
たとえば、トロロークなどは、みるからに、「トロル+オーク」っぽい怪物だが、それらを支配するミルドラルは、『指輪物語』の黒の乗り手と似ているようで、全く別の、凄く不気味な(グロテスクな魅力のある)怪物だ。
そもそも、闇に溶けるミルドラルという呼び名が魅惑的。
指輪の幽鬼よりも現実的な肉体をそなえているようなのに、同じくらい超自然的な部分もあるのだ。

一方、踊る子馬亭のバタバーを彷彿とさせる宿屋の亭主が何人も出てくるが、ただひとり、悪いやつは、やせ細った、違うタイプの男だというのも、ある意味露骨で、読者としては面白い。

もちろん、このような類似のモチーフは、次巻からどんどん少なくなっていき、どこからどこまで、〈時の車輪〉は〈時の車輪〉なのだ、というオリジナリティがふくらんでいくのだけれど、この第1巻(翻訳では第1部)に限り、こういった相似がうまく含まれているのだと思う。


竜王伝説〈1〉妖獣あらわる!―時の車輪 (ハヤカワ文庫FT)/ロバート ジョーダン
竜王伝説〈2〉魔の城塞都市―時の車輪 (ハヤカワ文庫FT)/ロバート ジョーダン
竜王伝説〈3〉金の瞳の狼―「時の車輪」シリーズ (ハヤカワ文庫FT)/ロバート ジョーダン
竜王伝説〈4〉闇の追撃―時の車輪 (ハヤカワ文庫FT)/ロバート ジョーダン
竜王伝説〈5〉竜王めざめる!―時の車輪 (ハヤカワ文庫FT)/ロバート ジョーダン
1997年11月~1998年3月

『針いっぽん』〈鎌倉河岸捕物控19〉


佐伯泰英が執筆中の時代小説シリーズは何本もあるのだけれど、もっとも庶民よりの物語がこのシリーズだろう。
作者はよほど剣術家が好きとみえて、どのシリーズも、主人公は剣豪だ。
従って、表向きは商人だったりしても、本体は侍であり、武術、とくに剣の達人なわけだ。
ただ、このシリーズのみが、主人公はまっとうな町人なのだ。
まあ、それでも、剣術の道場に通っていて、剣の達人であることにかわりはないのがご愛敬だけれど、政次の前身は常々語られるとおり、老舗の呉服屋である松坂屋の手代であり、岡っ引きの親分となっても、その時につちかわれた気風は変わっていないとされている。
剣術はあくまでも余技。
市井の暮らしと、そこで起きる事件を扱うというのがテーマ菜わけだね。

そんななか、しほが子供を宿し、まもなく生まれようかというタイミングとなっている。
妊娠・出産となれば、誰がなんといおうと、女性の独壇場であって、男はちょっとはなれたところでうろうろするしかないが、まさしく本巻は、その前段階(笑)。
いまでも、女性が出産を控えれば、母親や女友達(あくまでも女性たち。父親や男の友人知人は、夫を先頭にほとんどなにもできない?)
彼女らが、産着を縫ったり(いまなら買って贈ったり)、準備を整えることになる。
そう、いまなら既製品を買う事の方が多いだろうけど、江戸時代はまさしく、時前で縫わないといけないんだね。

たとえば、『耳囊』にも、琴を習いたいと願った娘に、女主人が、まず裁縫などが立派にできるようになれ、とさとしたエピソードが載せられている。
もうともかく、この時代は、裁縫のひとつもできないでは女性はすまされなかったし、逆に、裁縫が上手ならば、女でひとつでもなんとか暮らしていく事が可能だったようだ。

しほが、まさしく、「針」をふるうことが必要な時期に、市井とは全く別の女の世界を重ねるという仕掛けをしているのが本巻の事件だけれど、女の世界とはいえ、一見まるで真逆のものを、「針」でつなげているところが面白いし、その「針」の意味も、多重なものがこめられている。
「針いっぽん」に象徴されることのうち、最も悪いものが、殺人事件に結びつけられ、同じ「針いっぽん」が間近に迫る出産という嬉しい出来事にも深く結びついていく。

構図としてわかりやすくもあり、真逆のものを結びつける面白さもあり、決して悲劇だけではなく、明るく楽しい要素も必ず盛り込んでくるのが佐伯作品で、本巻はその面目躍如と言えるだろう。


針いっぽん―鎌倉河岸捕物控〈19の巻〉 (時代小説文庫)/佐伯 泰英
2011年11月18日初版

『飛竜雷天 (上下)』〈時の車輪12〉



作者の急逝により、「最終巻(翻訳でいうと第12部)を残すのみ」と言われていた〈時の車輪〉、なんと〈ミストボーン〉三部作を世に送り出したサンダースンの手で完成されるというニュースが入ってきたのはいつ頃だっただろうか。

しかも、長らく同シリーズの翻訳を手がけていた翻訳家まで失うという事態、いったいどうなるのかと思っていたが、まず結論から言おう。

このシリーズはやはり面白かった。一気に読んでしまわないと我慢できない内容、そしてドライブ感。
さらに、訳文にも全く違和感がなかった。
書き手も訳し手もかわっているのになんら違和感をおぼえなかったというのは、とても凄い。
それだけ、両者に、このシリーズに対する愛着があり、細心の注意をはらって書き綴られたからだと思う。
翻訳されるシリーズは、途中で訳者がかわる事があるが、そうすると、登場人物や用語の表記が変わってしまったり、文章のリズムが変わったり、いろいろな要素から、それまでの「翻訳による世界」が歪んでしまい、げんなりしてしまう事が多々ある。
これは、作家はもちろん、訳者もクリエイターであり、独自の特徴をそなえた文章を書くのが普通だと考えれば、違和感が生じる方がむしろ普通なのだ。
だからこそ、それがまったく感じられないというのは、凄いと思う。

さて、本シリーズは登場人物が多く、群像小説となっているのだけれど、作者(そして訳者)の死により途絶していた物語で、一番気にかかっていたのは、キャラクターでいうとエグウェーン、場所でいうと白い塔だった。
もちろん、主要人物の周辺はどこも緊迫していたが、その中でもっとも窮地に追い詰められているのが、エグウェーンであったかと思うからだ。
なにしろ、白い塔の中にとらわれているも同然の、敵の掌中でほとんど身動きがとれないのに、独力で立ち向かっているところだったわけだから。
しかも、ほとんど、外部からの救出や手助けは断っていたわけだ。
どうなるエグウェーン!
そして白い塔と、叛逆した異能者(アエズ・セダーイ)の一党は、分裂したままに終わるのか。
エライダはどこまで暴君になっていくのか。
黒アジャはどこまで浸透しているのか。

このスリリングな状況は、本巻でみごとに解決する。
ここだけで、カタルシスをおぼえる展開と言って良いと思う。
ここに注目し、固唾を飲んでいた人は、まず、納得できるんじゃないか。
最もネタバレしてはならない部分だろうから、ただひとこと。
「これぞアメリカのエンタテイメント!」
本巻は、エグウェーンの巻といってもいいくらいだ。
いささか懐かしいキャラクターが、凄いキーパーソン、そのうえとんでもない秘密を抱えていたり、実にわくわくドキドキだった。

しかし、もちろん、それだけではない。
シリーズ半ばから暗さを増してきたランド・アル=ソア、今回はどん底まで落ちるんじゃないかという運びなのだが、彼の心のうちにも、大きな変化が訪れる。
また、前巻(第11部)で、生存が示唆されたモイレインをめざす動きも大きくなってきた。
主人公(たち)を旅に導き出したモイレイン、ここでまた大きくクローズアップされてきている。

マットやペリン、ナイニーヴ、ミン、アビエンダ。そしてトゥオン。
彼ら彼女らも、 動いていくし、エグウェーンや白い塔の関連以外でも、かなり、懐かしいキャラクターが何人も復活して顔を出している。
あえていうと、今回直接動きが描写されなかった中心人物は、エレインくらいではないかと思う。

さて、最終といわれた第12巻(第12部)であるけれども、後継作者となったサンダースンによれば、「最終部は三部構成」だそうだ。
つまり、実質は、第12が終わりではなく、第14まであると考えれば良さそうだ。

第11部までは原書の1巻を4~5冊に分冊して発刊していたハヤカワ文庫FT、今回はそこまでの分冊はせずに、上下巻で出してくれた。
1冊はとても分厚くなるが(しかしハヤカワ文庫としては、まあ普通サイズ)、やはり一気に読める方が嬉しい。
アメリカでは次がすでに出ているとのことでもあり、絶対に断絶することなく、早めに次の巻を翻訳して出してほしいものだ。


飛竜雷天 (上): 雷雲の到来 (時の車輪)/ロバート・ジョーダン
飛竜雷天 (下): 光の集結 (時の車輪)/ロバート・ジョーダン
2011年11月25日初版

『神曲奏界ポリフォニカ ネバーエンディング・ホワイト』


ポリ白、これにて完結。最後まで一気に読める面白さであることは間違いないのだが、どうしても乗り切れない部分がある。
このシェアードワールドのメインである特にポリ赤で頻繁に出てくるものなのだが、精霊と楽士が戦うシーンは違和感がぬぐいきれないのだ。

いや、コンセプトは凄く面白いと思うんだけど、考えてもみてほしい。
2台の音響機器を置く。
そして、それぞれ違うCDをかけました。
どのように聞こえるであろうか?
おのおのがすばらしい音楽であったとしても、音がぶつかりあったとたん、そこには騒音しか生じないはずだ。
せっかくの面白いコンセプトなのだから、そこをなんとか工夫できなかったものか?

もうひとつ。
楽器に関する知識の低さに」うめく。
ポリ白では、前半でも、幼い少女のシラユキが、「コントラバスを演奏する」という無理なシーンが登場した。
体格の問題から、これは相当の無理が出る。
コンバスのネックを左手にとって弦をおさえつつ、弓をひくとなると、それなりの体の大きさがどうしても必要。

今回は、海辺でハープシコードを演奏する(ハープシコードってわりと管理の難しいものなのでこれもちょっと繭をひそめてしまうのだが)、その演奏中、音量が大きくなるという描写があるのだ。
あー。
無理だからね、これ。
作者は、ハープシコードの演奏をちゃんと聴いた事があるのだろうか。
ピアノと異なり、ハープシコードは、張られた弦を、ハンマー(鍵盤)で操作するツメでひっかけて音を出す。
強弱は事実上つけられないといっていい。
そもそも、鍵盤楽器で強弱をつける事が難しく、それを大いに可能としたのがピアノなのであって、だからこそ音の強弱をつけられるという意味をこめて、ピアノフォルテ(ピアノ)という名前が楽器につけられたのだ。

以上の2点から、もう対決シーンが違和感ばりばりなのだ。
そこさえ気にしなければ、ほんとに面白いんだけどね。
(まあ、専門的な知識が全くなければ、楽器の部分はスルーする事ができると思うんだけど)。

女神と精霊、人間の関係というやつは、シェアードワールドそのものに大きく影響を与える要素で、目のつけどころが面白いし、さすがライトノベル、キャラクターがいきいきしているのも魅力。
しかし、このような違和感を乗り越えるだけの力強さは、残念ながら最終巻には感じられなかった。
非常に残念だ。


神曲奏界ポリフォニカ ネバーエンディング・ホワイト (GA文庫)/高殿 円
2011年11月30日初版(発売中)

『愛憎』〈吉原裏同心15〉


今回はまだ物語の節目にあたるのか、新たな敵がようやく姿を見せ始めた、そういうところだ。
したがって、いまだ正体はなんともわからないのだが、得体の知れない魑魅魍魎のようなものが登場したのは、これから先、どういう経緯なのかあかされていくのだろう。

新たな要素というと、江戸相撲がかかわってきていることか。
どうやら今シーズンでは相撲と力士の世界に交わっていく事が決定のもよう。
魑魅魍魎の他、薄墨太夫の前身とかかわりのある人間の敵も登場するが、これもまた、背後関係はほとんど明らかになっていない。
なにやら、長崎や異人も登場してくる気配だが、現時点では黒幕がさだかではない。
まあ、魑魅魍魎を含め、先の展開を楽しみにというあたり。

一方、仙右衛門が「いよいよ」年貢の納め時を迎えた。
佐伯泰英は祝言のような晴れがましい行事は演出はなやかに描いてくれるのだが、残念ながら、主人公ではないからか、その部分がちょっと抑えめだ。
とはいえ、常連キャラクターがまたひとり人生の節目を迎えたわけ。
また、吉原に憧れる少年も一人ではなくなって、ちょっとほほえましい。

さて、本巻では吉原と深川の対立が新たに浮き彫りになったのだけど、やはり吉原というのは、格別なのだなあ、と感じさせられる。
本巻では、深川情緒にも格別なものがあるという描写がなあsれているが、そこでも比較される、吉原が「塀に囲まれた特別な場所」であることは、江戸では他がまねできないことだ。
なぜなら、江戸の郊外に、塀でかこわれた場所を作ることで、日常とは全く切り離された世界を創り上げているからだ。
現代でいうと、たとえばディズニーランド。
料金を支払って入場する、かこわれた「ランド」の中では、日常とは全く違う、ディズニーの世界だけが展開されている、単なる遊園地ではなく、そこにいる間だけは、入場者が、ディズニーの住人になれる。
子供も入れる場所ではなく、男のためだけの遊里という違いはあるが、吉原もまさしく、日常とは全く異なる「吉原のことは吉原だけのこと」という、夢の世界を創り上げているのだ。

男にとってはそもそも謎めいている女の世界。
華やかであり、夢のようであり、また、その底には遊女たちが身売りされてきたものであるというような、暗さやはかなさを秘めている。
単なる華やかな世界というだけではないがための魅力。
だからこそ日常を忘れる事ができ、ひとときの夢にひたることもできるのかもしれない、そういう雰囲気と、そこへの憧れが、吉原の花魁にあこがれる少年のうえに見る事ができるのだと思われる。


愛憎: 吉原裏同心(十五) (光文社文庫)/佐伯 泰英
2011年10月20日初版

『ガリレオの苦悩』


日本はまだまだ男権社会だと言われている。
もちろん、昔に比べれば、「女性の社会進出」はめざましいのだろうけれども、進出してもその後がない、という分析結果が出ているのだそうだ。
まあ大家に、結婚する、妊娠出産する、子育てする……ということが、社会的にサポートされているとは言えない。
そこに生じるさまざまな歪みをとりあげたのかと思えるのだ、
それぞれの短編に登場する女性たちは、個々にいろいろな悩みをかかえている。
誰が殺され、誰が殺したかというところも、もちろんストーリーの根幹ではあるけれど、むしろそこに関わる女性たちに焦点があてられている。
たとえば、第2編目は、奇抜なトリックや、昔ながらの本格推理そのままの複雑な家庭の事情にからむ犯罪という仕掛け、それが、ある女性を中心に展開する。
古いスタイルを踏襲する一方、それを刷新している。
そして、科学とミステリというそれだけで美味しいとりあわせに、もう一点、現代日本のさまざまな女性(の苦労)を挿入する事で、さらに興味深い物語にしているのだと思う。

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落下る(おちる)
操縦る(あやつる)
密室る(とじる)
指標す(しめす)
攪乱す(みだす)
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ガリレオの苦悩 (文春文庫)/東野 圭吾
2011年10月10日初版(文庫版)