手当たり次第の本棚 -7ページ目

『テレビの大罪』


(んほんの)テレビ局ってひどいよね、というのはもうだいぶん前から、特にネットで言われているように思う。
ネットばかりではなく、もう一般的にも、大きな災害や事件があるたび、テレビの報道姿勢が問われるなんて事が発生している。
3月の大震災でも、毎日毎日、津波襲来シーンをリピートしているだけだという非難があったのを思い出す。
私はその時、テレビといえば、一部NHKを見ていたくらいなのだが、それでも、ネットで流れるニュースと、テレビで流されるニュースに情報の差があった事に非常な違和感があった。
たとえば、自衛隊やアメリカの海兵隊が派遣されて現地の人をこんな風に助けてるよ!
……というニュース、海外のニュースなどでは流れているのに、日本のテレビにはほとんど映像がのらなかったようだ。
救援に駆けつけてくれた各国の救助チームの活躍も、テレビにはほとんど映されていなかったらしい。
原発に関しても、テレビでは政府発表をそのまんま受けて、特定少数の解説者をまじえて談話しているだけという感じ。
ともかく、ネットがメインだった私と、テレビがメインだった母とで、把握している情報に大きな違いがあった事に、がくぜんとした。

そんな事もあって、本書を手にとってみたというわけだ。

さて、前置きが長くなったけれど、本書は決して、テレビ局を単純にバッシングするという内容ではない。
まず、導入が面白い。
「テレビに出演している女性タレントのスリーサイズ、あれは大嘘ですよ!」
始まりはここから。
えースリーサイズが嘘というかサバ読んでるのはだいたいわかってるって、と一瞬思うが、医師である著者が、洋服のサイズと、実際の胴回りのサイズの違いを説明し、かつ、自身の家族に言及し、話を進めていくあたりで、「ふむふむ、だから?」と身を乗り出すような感じになる。
そして、著者が導き出す結論に「うぁっ?」と意表を突かれるのだ。
しかも説得力がかなりある。

テレビの罪というと、冒頭で述べたような偏向報道とか、一連の捏造事件などをすぐに思い浮かべてしまうが、全く違うところから読者をアプローチさせるわけだ。

むしろ、その後に論じられる事の方が、「あーそれテレビ悪いよねえっ」と大いに納得できるテーマが並ぶ。
医療事故に関する報道とか。
しかし、あえてそういうものから入らないところで、逆に、読者をうまくつかんでしまうのだ。

つい先月、テレビ放送は津波被災地のうちの3県をのぞき、いっせいに地デジに切り替わったけれど、地デジを放棄した世帯もそれなりに残っているという。
新聞を定期購読する家庭が徐々に減っている今、テレビも、もしかしたら、それに続くかもしれない。
テレビはテレビで、長所がいろいろあると思うが、そこに安住するわけには、今後はいかないのだ。
昔と違っていろいろなメディアがある現代だからこそ、もう一度、「テレビ」というメディアを再検討するのは、悪くないと思う。
そのためにも、本書のような意見に接する事は、大切。
そしてもちろん、本だろうとテレビだろうと、そのまんま鵜呑みにするのは厳禁。


テレビの大罪 (新潮新書)/和田 秀樹
2010年8月10日初版

『ヒュペルボレオス極北神怪譚』


クラーク・アシュトン・スミスの選集、2巻目。
タイトルからわかるとおり、今回はヒュペルボレオスもの。
ぞしークモいいが私はこちらの方が好みだったりする。
まあ、それは、多分にヒロイック・ファンタジイ風味が強いからだと思うのだが、そこを含め、やはりC.A.スミス作品の醍醐味は、その「妖美さ」にあると思う。
美しさの中にあるおぞましさ、おぞましさの中にある美しさ、その共存性がなんともいえぬ魅力なのだ。
本巻には、「七つの呪い」など、さまざまなアンソロジーにおさめられている有名な作品も幾つか含まれるが、固有名詞などの表記を見直した新訳なのだそうだ。

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「ヒュペルボレオス」
ヒュペルボレオスのムーサ
七つの呪い
アウースル・ウトックアンの不運
アタムマウスの遺書
白蛆(びゃくしゅ)の襲来
土星への扉
皓白(こうはく)の巫女
氷の魔物
サタムプラ・ゼイロスの話
三十九の飾帯盗み
ウッボ=サトゥラ

「アトランティス」
最後の呪文
マリュグリスの死
二重の影
スファノモエーヘへの旅
アトランティスの美酒

「幻夢郷綺譚」
始原の都市
月への供物
地図のない島
歌う炎の都市
マルネアンでの一夜
サダストル
柳のある山水画
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C.A.スミスも関わりのあったラヴクラフト・サークルの提唱していたコズミック・ホラーは、人間がたちむかうことなどとうていかなわぬ、宇宙的恐怖が存在することを大前提としていたいわけだが、当時ウィアード・テイルズなどに掲載されはじめていた数々の券と魔法の物語(またはヒロイック・ファンタジイ)もまた、人間があらがうことのできないような、強大な神的敵を相手にする英雄の物語だった。
本巻の「ヒュペルボレオス」や「アトランティス」に属する物語は、まさしく、そのような宇宙的恐怖や、強大な神的敵を相手に人間が孤軍奮闘する物語が多い。
あらがい得ぬものもあれば、皮肉な結末に終わるものもある。
しかし、それは読者に対して威嚇的に語られる事はない。
あくまでも、美しく怖ろしいものとして淡々と描写されるのだ。
また、あらがい得ぬといっても、主人公は最後までたいていはあらがうことになっている。

ところで、面白いことに、一部の異星や(作品が書かれた当時という意味での)現代を舞台としたものを除けば、ここに登場する異世界は、なぜか「熱帯」と「氷河」の両極端に分かれている。
そう、温暖な土地が登場しないのだ。
当時探検家がめざした「秘境」が、極地のような極寒の土地か、あるいはアフリカのような暑いところだったからなのだろうか。
しかし、暑熱の地は異界へ通じる事が多く、氷河や極寒が、魔的な脅威や罠となっている事が多いのも、面白い。


ヒュペルボレオス極北神怪譚 (創元推理文庫)/クラーク・アシュトン・スミス
2011年5月31日初版

『遠い椿』〈公事宿事件書留帳17〉


だいたい、このシリーズに登場する人物は、一所懸命だ。
但し、主人公をのぞくのだが。
その回限りの登場だからだろうか、事件に関わる人(そして、鯉屋が味方する事になる人)の一所懸命さが際立つように思う。

たとえば、「小さな剣鬼」では、少年が無体な大人に対して見事に侍の意地を貫く。
それも、現代ならば「え、それはちょっと~」と言われてしまうような、しかし、武士道ならばこうもあろうかと思われる、鮮烈な貫き方だ。
ある意味、すがすがしさも感じられる。

しかし……。
一所懸命で、けなげで、意地もはり、そして最後がなんとも切ない「黒猫」。
澤田ふじ子は猫が好きなのだそうで、ここに登場する猫も、なんともいえず、リアルだ。
「かわいいネコちゃん」とは一線も二線もかくする、もうほんとにけなげな猫なのだ。
そういえば、猫の報恩譚というのはいろいろあるが、鍋島の猫騒動などのように、けなげで一途なあまり、魔物のようになるパターンがあって、この話もそういうラインに通じるものがあるかと思う。

もともと、公事宿というものが平民のものである以上、物語もあまり侍が出てくるものはないのだが、それにしても今回は、「はんなり」する話と「せつない」話が半々であるようなのに、圧倒的にせつないイメージが強いのは、この「黒猫」のせいかもしれない。


遠い椿―公事宿事件書留帳〈17〉 (幻冬舎時代小説文庫)/澤田 ふじ子
2011年6月10日初版

『アタゴオルは猫の森 (17) 』


アタゴオルが描き始められてから、えらく長い年月がたっているのだが、おおまかにいうと、アタゴオルでの日常のひとこまを描いているものと、○×戦記のように、特定の敵を相手に、アタゴオル以外の土地に遠征したヒデヨシたちが戦う話が交互につづられている。
今回も、前巻で開始された『チョウマ戦記』が、ほぼ全巻にわたって描かれている。

あくまでも好みの問題だが、私はあまりこの○×戦記の部分が好きではない。
いや、確かに、アタゴオルにおける非日常も、楽しい。
今回はイケメンの自由人にして戦士、ギルバルス(ムーミンの世界でならスナフキンに近いか)が活躍するので、これまた楽しくもある。
と、申しますのは。

もともと、ヒデヨシの仲間たちはそれぞれがなにか突出した部分をもってはいる。
たとえば、パンツは学識と知能と推理力にすぐれている。
唐揚げ丸は、ネジがぶっとびやすいが、天才的なヴァイオリン弾き。
こんな風に。
しかし、彼らの突出ぶりはあくまでも、常識の範囲におさまっている。
そのなかで、非常識な突出ぶりを示しているのが、主人公のヒデヨシと、このギルバルスなのだ。

従って、この二人が登場する丸×戦記だと、いわば期間限定の「選ばれたるもの」として、二人とも候補にあがるけれど、だいたいはヒデヨシが選ばれることになる。
ところが、今回は珍しくも、ヒデヨシが全く選択の対象にならず、ギルバルスが選ばれてるんだね。

確かに、王者の風格はあるけれど、それよりなにより、根っからの自由人であるギルバルスが、どのように動くのかというのが、チョウマ戦記の見所だ。

しあkし、それでもなお、巻末の「春の拍子」のような日常の方が好きなのは、とてもスローな世界であるアタゴオルの日常というやつが、ほっとする要素を多々秘めているからだと思う。
まあ、逆に言えば、そういったスローさが読者にとって非日常として感じられる以上、非日常の中野非日常となる戦記ものはいまいちひたれない、という事になるのかも。

うん、面白いんだけれどね(笑)。


アタゴオルは猫の森 17 (MFコミックス)/ますむら・ひろし
2011年6月30日初版

『バチカン奇跡調査官 千年王国のしらべ』


奇跡、まあ範囲を狭くして、キリスト教における奇跡とひとくちに言っても、内容はさまざまだ。
像が涙や血を流した、マリアや天使が姿を現した、病気などが治った、たぶん、ここらへんが定番ではあるだろう。
しかし、「死から蘇った」というと、ただごとではない。
作中、この奇跡は、イエス・キリストのみのもの、と語られている。
たしかに、聖書によると、新約はもちろん、旧約もふくめ、他人を死からよみがえらせた奇跡も、自らが復活した奇跡も、それはキリストの上だけに起こったものとなっている。
ならば、もしも、キリスト教者が死から蘇り、かつ、病人や不具者を癒し、水の上まで歩きましたと言われたら、どのように受け取ればいいのか?

ゆゆしき問題だ。

そして、ここに登場する問題の人物アントニアス14世は、「復活した」だけでなく、他者、それも主人公のかたわれを死からよみがえらせちゃうのだ。
冒頭、そのシーンから始まるこの物語、かなりスリリングだ。
また、そこへもってきて、悪魔崇拝者の影もちらついていたりするのだが……って、これは本シリーズでは定番だね。
ただ、敵のスタイルも、相手が違えば当然違ってくるので、そのあたりはうまくできている。

毎度の感想だが、これ、ホラー文庫に入ってはいるものの、やはりミステリだと思う。
悪魔崇拝者の正体など、手がかりとなる伏線があちこちに張ってあったりして、手法的には絶対にミステリ。
逆に、その分、ホラー文庫に入っていても、決して、怖くはない。

道具立ても凝っていて、今回の目玉は水圧オルガン(ヒュドラリス)だ。
うわあ凄いもん出した、と、そのセレクトにまず感動した。
なかなか思いつかないでしょう、この水圧オルガンは。
私は音楽史の書籍上でお目にかかった事しかないし、それだって大きく行数を割かれていたわけではない。
ちなみに、さらっと検索してみたところ、さすが。YAMAHAのサイト が一番詳しいようだ。
どんな音がするのか、切に聞いてみたい。
作中、ロベルトが、水圧オルガンの演奏方法がわかった、とうっとりしているシーンはとても共感する。

奇跡の種明かしなどもこのシリーズの醍醐味のひとつだが、正直、2巻~3巻より、本巻の方が仕掛けも面白く、ストーリー展開もわくわくさせられる。
まあ、仇敵となったかの人も、また登場してくるのだろうけど。


バチカン奇跡調査官 千年王国のしらべ (角川ホラー文庫)/藤木 稟
2011年7月25日初版

『神曲奏界ポリフォニカ ルックバック・クリムゾン』


ポリフォニカという物語は、音楽というメディアにより、人間と精霊が絆を結ぶ物語なのだが、なりたいの違う両者のこと、そうそううまくいくはずもない。
いや、似ているだけに、うまくいくところもあれば、似て非なるものであるために、うまくいかないこともあるし、あるいは、似てるがためにかえってうまくいかない部分もある、そこに生じる葛藤をドラマにしているわけだ。

人間だけをとっても、主義主張の違いから、極端な行為に走る者がいるわけだから、ポリフォニカの世界においておや。
おそらく、周期的に、人間が精霊を排除しようとする動きはあったものだろう。
(あくまでも、精霊が人間の社会に立ち混じるという図式のため、逆はほぼ、ないと思われる)。
実際、このところポリ赤とポリ白がすごくリンクしているのだが、それは両者ともに、人間と精霊の関係が最悪の状態となった時代を描いているからではないか。
シリーズの幹であるポリ赤は、他シリーズのキャラクターがいろいろな形で登場するが、このため、本巻でもポリ白でおなじみの「あの人この人」が顔を出している。
(但し、ポリ白読者からすると、一部ネタバレじみた状態になっていることも否めない)。
まあ、逆に、エリュトロンことフラメルがようやく「しあわせを取り戻す」ような状態となっている光景を見るのは、ほっとするところもある。

こちらもあと少しで物語が決着しそうだが、それまでにもう一波乱くらいはあるだろうか。


神曲奏界ポリフォニカ ルックバック・クリムゾン (GA文庫)/榊 一郎
2011年7月31日初版

『神曲奏界ポリフォニカ ウィズアウト・ホワイト』


我々の(あるいは、我々のと酷似した)世界と、ポリフォニカの世界。
二つの世界の大きな違いは、もちろん、精霊が人間の手の届くところにいるかどうかということだ。
そして、こn二つの世界が最も関わりあい、かつ、そこにある関連性が示唆されているのがポリ白ということになるのだろう。

かつて、ミナギ・クロードという人物がポリフォニカの世界を訪れた時に、我々の世界(と便宜上呼んでおこう)から持ち込んだ楽曲を、神曲として演奏した事件があった。
その時には、あくまでも、ミナギのしたこととされたけれども、実は、もっと根深いものがあるようで、興味深い。
なにゆえ、精霊とかかわりのない世界からもたらされたものが、より強い神曲となり得るのだろうか。
あるいは、精霊が介在することで、ポリフォニカの世界における音楽は、歪められた部分もあるのではないだろうか。

まあ、ポリフォニカにある音楽が全て精霊のために演奏される神曲というわけではないから、一概に言う事はできないかと思うが、いくら、演奏者の「魂の形」を音楽として表現するから精霊が来るとはいっても、その先には、「精霊になにかをしてもらうために、楽士が音楽を演奏する」という方向へ行き着くわけで、音楽という藝術が本来もつ方向性とは、そこで違ってしまうわけだ。
むしろ神曲とは、精霊を主旋律とする伴奏のポジションにあると言える。、
実際、神曲楽士の演奏の心得は、「伴奏法」で学ぶ事とかなり重なる。

それは、良い事なのかどうか?
おそらく、この世界における人間と精霊との関わりの是非は、そこに重なるのだと思うのだ。

さて、そういった背景の事はおくとして、本作の学園ラブコメものとしての側面だが、者がtりの集結を前に、どのカップル(?)も、落ち着く場所へ落ち着きそうだ。
スノウもジョッシュもそういう意味では、おめでとう。
デイジーもそこに含めるべきだろうけど、彼女の場合、父親と母親のロマンスがインパクトが強くて、まだちょっとかすんでいるのが残念。


神曲奏界ポリフォニカ ウィズアウト・ホワイト (GA文庫)/高殿 円
2011年5月31日初版

『一誌ノ秋』〈居眠り磐音江戸双紙37〉


姥捨の郷で、すっかり里人の一員となっていくかのような磐音の一家だが、物語として、そうは問屋がおろすまい。田沼の妾おすなと(どうもこの女性、側室というほどの貫禄がない)、雹田平の手がじわじわと姥捨にまでのびてきているからだ。
その一方で、磐音の周囲の人々も、次第に磐音のそばへと、引き寄せられていく。

もともと、磐音という人物に、そういった吸引力があるのだから、これは理の当然だ。
ほんとうは、夫婦二人でのがれようというところを、霧子と弥助が加わり、やせ軍鶏、でぶ軍鶏が加わり、一行は減るどころか増えていくばかりだし、外にあって、今津屋はじめ、サポートする人々も、またまた増えていくのでは、姥捨に舞台をおいたまま物語が進むわけはない。

それゆえ、本巻で磐音一家の逃避行に、ひとまず区切りがつく形なのだが、それを意識してのことだろうか、章を春夏秋冬にわけ、そこに姥捨の四季を配して、殺伐とした決戦を控えながらも、のどかな情景を描写している。
江戸の状況も品川家のおめでたなど、佐伯作品特有の、人情味あふれるシーンが用意されているが、やはり今回の真骨頂は、おそらく次巻あたりであとにすることとなりそうな、郷の四季だと思う。


一矢ノ秋-居眠り磐音江戸双紙(37) (双葉文庫)/佐伯 泰英
2011年7月17日初版

『エスパイ』 小松左京を偲ぶ


小松左京が亡くなった……!
お年を考えればまあ……ねえ、とは思うが、日本SF界第一世代の大御所が亡くなられたという報に、いささか虚脱している。
正直なところをいうと、私の愛読書の中に小松左京作品は入っていない。
もちろん、読んでるけれど、そこまで好みにぴたりとはまる作品ではなかった、ということなのかもしれない。
だが、すごーく印象に残っている一作品があるのだ。
それが、この『エスパイ』。

おそらく、大方の追悼記事でとりあげられるのは、今年3月の大震災もあって、『日本沈没』だろうし(そもそもベストセラーで映像化もされてるし)、『さよならジュピター』もあげられるだろうし、『果てしなき流れのはてに』とか、まあいろいろあるだろうと思うんだが、その中で、実は、『エスパイ』、そういう名作ラインからはずれたものなのだ。
なんといっても、まず、第一にこれは娯楽が前面に出た物語だ。
タイトルからして、それを証明している。

エスパイ。
レスパー+スパイ、だからエスパイ。
ハルキ文庫版のこの表紙などはなかなかいいね。
いかにも、和製ジェームズ・ボンドっぽい。

そもそも、ここに登場するエスパーというものが、今は流行らない気がするうえ、超能力者であるということと、それがスパイ活動をするというのは、凄くありがちに思える。
冷戦時代には、実際に米ソ(とくにソ連)でそういう研究が行われてたなんて噂もある。
しかし、ちょうどジュヴナイルであるとか、そもそも発表された本国で出版コードが厳しく、性的描写がほとんどないようなSFばかりを読んでいた中学生のみぎり、私がはじめて手にした小松左京作品がこれであり、衝撃を受けたわけだ。

それは、文章も内容もさることながら、「ちょっと大人のシーンが入った」作品だったからだ。
ボンドガールのような美人スパイが登場したというインパクトが、いまだに、(きっと本来とは違う意味合いで)
「あれは凄かった……(呆然)」
という印象となって残っているのだ。
まあ、あれだ、美人キャラのボインがどうしても思い浮かぶのは読んだのがそういう年頃だったせい。きっとそのせい。

しかし、この作品があるからこそ、小松左京作品というものが、決して「科学的に正確な」とか、「ハードな」だけではない、ちゃんと、エンタテイメント性も高い作品なのだと私は認識できているんだろうなあ、と改めて実感する。
SFというと、ハードSFが至高、それ以外は認めんっ みたいな人がたまにいるんだけれど、やはりそれだけでは面白くないと思う。
そして、小松左京作品のエンタテイメント性も、もっと評価されて良いように思う。


エスパイ (ハルキ文庫)/小松 左京

『天と地の守り人 第三部 新ヨゴ皇国編』


人は、孤立したままでは生きる事ができない。
たとえば、男と女が最低1名いなければ、子供は生まれない。
これが根本であると思うが、生物的な増殖だけではなく、それは人の集団と集団の間にも、人とそれ以外の事象の間にも適用される基本原理ではないかと思う。
清き川には魚住まずというが(いや、もちろん、濁りすぎてもだめだけれど)、生き延びるためには適度な外部からの刺激と、状況に適応するための変化が必要なのだろう。

チャグムの祖国であるシンヨゴ皇国は、帝国の脅威を受けて、鎖国する道を選ぶ。
これは、「清浄であること」が至上であるヨゴが、最も容易に選択できる道だっただろう。
その真逆の位置にあるのが、帝国の枝国となった旧ヨゴということになるかもしれない。
ヨゴの皇族としては異例なまでに、広く世間を見てきたチャグムでなければ、その「常識」をひっくり返す事はできなかったのだが、本来、父子の対立というところから始まったドラマが、ここで最終的に、国レベルの問題として発展しているのだ。

もちろん、単純に、チャグムの父に代表される「旧弊なもの」が悪いと決めつけるわけにはいかない。
どの程度切り捨てる事ができるのか、また、どの程度、(のちに)温故知新する事ができるのか、その選択はとても難しい事だ。
感情的なこだわりも無視する事はできない。
特に、変化の時にあたっては、この感情的な問題から、「どの程度切り捨てる事ができるのか(また、やりすぎないようにできるのか)」が重要なポイントになってくる。
その点で、父帝の選択はなかなかみごとだとも言えるのだ。

このように、本作では、幾つもの精力や考え方が渦巻いているのだけれども、そのいずれについても、決して、白黒つける事ができない。
カンバルでも、新ヨゴでも、賢明であり国に忠実である人が、裏切りともとられかねない選択すらしている事を見ても、それがよくわかるだろう。
そして、結果的にチャグムの選択が最良の結果をもたらすのだが、それであってもなお、他の考え方をした人たちが間違っていたといいきる事ができない。
また、誰もが、その人物の視点から、最善の事をしている。
このために、物語は複雑な状況となるが、面白くもある。

とkろおで、この、全く白黒がつけられず、さまざまな選択が行われているが、誰もが自分の観点から最善を尽くそうとするタイプの物語、海外でいうと、アーシュラ・K・ル=グインと、ローズマリ・サトクリフを私は連想する。
たとえば、『ゲド戦記』(断じてアニメではない)と比較するといろいろ興味深いのではなかろうか。


天と地の守り人〈第3部〉新ヨゴ皇国編 (新潮文庫)/上橋 菜穂子
2011年6月1日初版