『アバタールチューナー IV 〈楽園〉前篇』 | 手当たり次第の本棚

『アバタールチューナー IV 〈楽園〉前篇』


物語はふたたび、ゲームソフトと交錯する。
具体的には、ここから、ゲームソフトの『アバタールチューナー2』と重なっていく。
実は仮想空間であったジャンクヤードから、人類が結晶化している未来の世界へ、キャラクターが出て来たところだ。
これは、なかなか面白いと思うのだ。

もともとのメガテンでは、悪魔を電子的なデータとしてコンピュータ内に取り込む事で、人間が悪魔とコミュニケーションを結ぶ事が可能というコンセプトだ。
心霊学では、いわゆる心霊現象が磁場に関係するものとしている(科学で定義する磁場とはいささか違うところもあるわけだが)。
おおざっぱにいうと、人間が全く生身で感知できないわけではないが、通常の物体や自然現象などのように感知する事ができない「もの」を、電子的なデータとして互換させている。
しかし、あくまでも、メガテンでは、悪魔も、それに付随する現象も、人間を含むこの世の通常の生物と同質の(物理的な?)存在ではない。

しかし、本作がデジタルではなくクォンタム、電子ではなく量子による情報処理をベースにしたように、メガテンにおける絶対的な、人間と悪魔の差というものが、「ない」とは言わぬまでも、大変曖昧な、一部で同化可能なものとsちえ扱われているようなのだ。
たとえば、ジャンクヤードにおいて主人公たちがアートマを与えられ、異形のものに変身し(決して、召喚したり喚起したりするわけではない)、お互いに食いあう事で直接的にデータの取得をするように、未来世界におけるヒトの結晶化そのものが、この世界における「情報のやりとり」に関して、非常に重要なポイントとなっているわけだ。
実際、前巻までに、世界唯一のウルトラコンピュータであるEGGが、演算のための素材として、結晶化したヒトを利用している事があかされている。
また、未来の人類(の一部)が、アートマを身につけ、変身できるという事も既にわかっているが、ここで、その「変身」の秘密が明らかにされる。

ジャンクヤードでは、皆がなんらかのアートマを得て、互いに食い合う事となったが、この未来世界では、一部の者しかアートマを得ていない。
そのおぞましい意味が、「情報のやりとり」の凄まじい表現として描写されている。
これは正直、ゲームよりずっとリアルに感じられる。
(映画と小説の関係にも言える事だが、どうしても、小説という媒体の方が、背景世界を深く描きやすく、その点で映像よりリアルさ、または深さを感じさせる)。

この、アートマを持つ者と持たざる者との間に、凄い情報格差が生まれてしまうのは当然なのだが、実はこのアートマがまだまだ実験段階であること、そしてこれを支配している者がいることに、まだいろいろ仕掛けが隠されていそうだ。
なんといっても、なぜ結晶化などというものが発生したのかについては、語られていないんだしね。
残るところはあと1巻。この最後の部分がどう謎解きされるのか、非常に楽しみ。


アバタールチューナーⅣ (クォンタムデビルサーガ)/五代 ゆう
2011年8月25日初版